方丈記
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『方丈記』は鎌倉時代前期の1212年に鴨長明(かものちょうめい)によって書かれた随筆です。『枕草子』『徒然草』と並んで三台随筆のひとつと言われます。
この『方丈記』は何といっても冒頭の部分が有名。
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
暗唱した人も多いのではないでしょうか?
訳としては、「川は涸れることなく、いつも流れているが、水はもとの水ではない。淀んだところに浮かぶ水の泡も、あちらで消えたかと思うと、こちらにできたていたりして、長くとどまっている例はない。世の中の人、住むところを見ても、これと同じようだ。」
学生時代に習ったので冒頭は知っているが内容はさっぱり・・・。そんな人も多いでしょう。
・方丈記のあらすじ
『方丈記』の内容としては、前半は鴨長明が体験したさまざまな天変地異を記しています。冒頭で「人の世は水の泡のようにはかなく変化してやまない」としておりますが、当時は安元の大火、治承の辻風(竜巻)、治承の遷都、養和の飢饉、元暦の地震が連続して起こっており、これらを具体例としてあげております。
後半は、世の無常を痛感した鴨長明は、出家し日野山に「方丈の庵(約3メートル四方)」を建て、そこで残された生涯を送ることを決意します。心をわずらわすこともない静かな生活。しかし、それに徹しきれない自己を発見することになる。
・鴨長明
鴨長明は1155年に生まれました。父は賀茂神社の神官でしたが、その父が亡くなってからは和歌や琵琶に精進するようになり、46歳の時に後鳥羽上皇に召されて和歌所の寄人となりました。50代になったころに河合社の社職を継ぐ機会があったのですが、同族の反対にあい継ぐことが出来ずに、失意の中、出家します。その後、日野山に住処を移し、60歳の頃に『方丈記』が執筆されるのでした。1226年に死去。著書としては、『無名抄』『発心集』などがあります。
・方丈記(原文・現代語訳)
ゆく川の流れは絶えずして(原文)/冒頭
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、蔓を争へる、高き、卑しき人のすまひは、世々を鰹て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は、去年焼けて今年作れり。或は、大家滅びて小家となる。
住む人も、これに同じ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死し、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより宸りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか、目を喜ばしむる。その主とすみかと、無鴛を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花はしぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。
ゆく川の流れは絶えずして(現代語訳)/冒頭
行く川の流れは絶えることがなくて、なおその上に、もとの水と同じではない。流れか潜っている所に浮ぶ水の泡は、一方では消え、一方では生じて、長い間、同じであり続ける例はない。
世の中に存在する大と家とは、また、このようなものである。玉を敷いたように発しい都の中で、棟を並べ、屋根の高さを戟っている、身分の高い人、低い人の住居は、長い年月を経過してもなくならないものであるが、これを真実かと調べると、昔あったままの家はめったにないものである。あるものは、去年焼けて今年建てた。あるものは、大きな家が滅んで、小さな家となる。
住んでいる人も、これと同じである。場所も変らず、人も多いけれども、昔からの顔見知りは、二、三十人のうちで、わずかに一人か二人である。(ある者が)朝に死に、(またある者が)夕方に生まれるという、世の鴛は、ちょうど水の泡に似ているのだ。
(私には)わからない、生まれたり死んだりする大は、どこから来て、どこへ去ってゆくのか。また、わからない、仮の住居は、誰のために苦心し、何にもとづいて目を楽しませるのか。その主人と家とか、常に変転することを争う有様は、たとえてみれば、朝顔の花と露(との関係)と同じである。あるときは、露が落ちて花が残っている。残っているといっても、朝日に当たって枯れてしまう。あるときは、花がしぼんで、露はまだ消えないでいる。消えないといっても、夕方まで残っていることはない。
予、ものの心を知れりしより(原文)/安元の大火
予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やや度々になりぬ。
去ぬる安元三乍四月二十八日かとよ。風激しく吠きて、静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より、火出で東て、西北に至る。果てには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで移りて、一夜のうちに、塵灰となりにき。火元は、樋口富小略とかや。舞人を宿せる仮屋より、出で宸たりけるとなん。
吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺りは、ひたすら焔を地に吠きつけたり。空には、灰を吠き立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる鳩、飛ぶが如くして、コー町を越えっつ移りゆく。その中の大、現し心あらむや。或は、煙にむせびて倒れ伏し、或は、焔にまぐれてたちまちに死ぬ。或は、身一つ辛うじて逃るるも、資材を取り出づるに及ばず、七珍万宝、さながら灰燈となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。まして、その外、数へ知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者数十人、馬、牛のたぐひ辺瞭を知らず。
人の営み、みな愚かなる中に、さしもあやふき京中の家を作るとて、宝を費やし、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。
予、ものの心を知れりしより(現代語訳)/安元の大火
私が、物事の道理をわきまえるようになった頃から、四十余りの年月を送っている間に、世間の予想もしない出来事を見ることが、次第に度重なってきた。
去る安元三乍四月二十八日であろうか。風が激しく吠いて、静かではなかった夜、午後八時頃、都の東南から火事か起こって、西北に至った。ついには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで燃え移って、一夜のうちに、塵や灰となってしまった。火元は樋口富小略とかいうことである。舞を舞う人を宿泊させる仮小屋から出火したということである。
吹き乱れる風によって、あちこちと燃え移ってゆくうちに、扁を広げたように、先に行くほど広範に燃えてしまった。遠い家は、煙にむせ、近辺は、ただただ、炎を地面に吹きっけている。空には、灰を吹き上げたので、火の光に照らされて、空一面が赤くなっている中に、風の勢いにこらえきれず、吹きちぎられた炎が、飛ぶようにして、一、二町を越えながら鵬え移ってゆく。その中にいる人々は、正気でいられようか。ある人は、煙に呼吸がりまって倒れ伏し、ある人は、炎のせいで友絶して、すぐに死んでしまう。ある人は、体一つだけでようやく逃れても、財産を取り出すことができず、珍しい宝物が、そっくりそのまま灰や燃えかすとなってしまった。その損害は、どれくらいであろうか。その際、公卿の家は、十六焼けてし
まった。まして、そのほかは、歓えきれない。都全体のうち、三分の一に及んだということである。男女の死んだ者は数十人、馬や牛の類は際限がない。
人間の、行いは、全て愚かであるが、その中で、これほどまで危険な都の中に家を作ろうとして、財産を費やし、苦心することは、とくに無益なことでございます。
また、洽承四年卯月のころ(原文)/治承の辻風
また、洽承四年卯月のころ、中御門京極のほどより、大きなる廸風おこりて、六条わたりまで、吹けること侍りき。三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さなから、平に倒れたるもあり。桁、柱ばかり残れるもあり。門を吹き放ちて、四五町が外に置き、また、垣を吹き払ひて、隣と一つになせり。いはんや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれぱ、すべて目も見えず。おびただしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業の風なりとも、かぱかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづける大、数も知らず。この風、未の方に移りゆきて、多くの人の歓きなせり。
辻風は常に吹くものなれど、かかることやある。ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ、疑ひ侍りし。
また、洽承四年卯月のころ(現代語訳)/治承の辻風
また、洽承四年四月頃、中御門京極のあたりから、大きなっむじ風が起こって、六条大路のあたりまで吹いたことかありました。三、四町を吹き荒れる間に、その中に入っている家々は、大きなのも小さいのも、一つとして破壊されないものはない。完全に平らに倒壊したものもあるし、桁、柱だけか残っているものもある。門を吹き飛ばして、四、五町先に持ってゆき、また、垣根を吹き払って、隣と一筆の宅地にしてしまった。まして、家の中の財産は、残らず空に吹き上げられ、桧の皮や屋根板の類は、冬の木の葉が風に吹き乱れているようである。塵を煙のように吹き上げたので、全く目も見えず、騒がしく鳴り響くので、ものを言う声も聞こえない。あの、地獄の業風であっても、このくらいであろうと思われる。家が損害を受けたばかりでなく、その家を修理する間に、身体を偽付け、障害者になった人は、数も知れない。このっむじ風は、南南西の方角に移って行って、たくさんの人々の悲嘆をもたらした。
つむじ風は、いっも吹くものであるか、こんなことかあろうか、ただごとではない。神仏のしかるべきお告げであろうか、などと不審に思ったのでした。
また、洽承四年水無月のころ(原文)/福原遷都
また、治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりしことなり。
おほかた、この京のはじめを聞けることは、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を鰹たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、やすからず憂へあへる、げにことわりにも過ぎたり。
されど、とかく言ふかひなくて、御門よりはしめ奉りて、大臣、公卿みなことごとくうりろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとり、故郷に残り居らむ。官、位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうりろはむと励む。時を失ひ、世に余されて、期する所なき者は、憂へながらとまり居り。軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀川に犀び、地は目の前に畠となる。人の心みな改まりて、ただ馬、鞍をのみ重くす。牛、車を用する人なし。酉南海の所領を阪ひて、東北の荘園を好まず。
また、洽承四年水無月のころ(現代語訳)/福原遷都
また、治承四年六月の頃、急に遷都がありました。たいへん意外なことであった。
そもそも、この京都のはじまりを聞いたところでは、嵯峨天皇の御代に、都と定まった時より以後、もはや、四百余乍を鰹ている。特別な理由がなくて、軽々しく都が改められるはずがないのであるから、今回の遷都を、世間の人が、落ち着かず心配しあったことは、全く道理をも超越している。
しかし、なんだかんだということのかいもなく、天皇をはしめとして、大臣、公卿も、みなことごとく、お移りになった。朝廷に仕えるといったほどの人は、誰一人、旧都に残っていようか。官職や位階に望みをかけ、主君の恩恵を頼みにするほどの人は、一日でも速やかに移ろうと努め、時流に乗り遅れ、世間から取り歿されて、期待するもののない者は、嘆きながら、旧都に歿っている。軒を競っていた人の住居は、日歓を経るにうれて荒れてゆく。家は、こわされて(新都で建材として使うために筏に組まれて)淀川に犀び、宅地は、見ている間に畑となってゆく。人々の心は全て変ってしまって、ただ、馬や鞍ばかりを重んずる。牛や牛車を必要とする人はない。西南海方面の領地を所望して、東北方面の荘園を好まない。
その時、おのづからことの便りありて(原文)/平安遷都
その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて条里を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、潮風ことにはげし。内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様かはりて、優なるかたも侍りき。
日々にこぼち、川も狭に、運び下す家、いづくに作れるにかあらむ。なほ空しき地は多く、作れる屋は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所に居る者は、地を失ひて憂ふ。今移れる人は、土木のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただひなびたる武士に異ならず。
世の乱るる喘相とか聞けるもしるく、日を鰹つつ、世の中雇き立ちて、人の心もをさまらず。民の憂へ、つひに空しからざりけれぱ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給ひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとのやうにも作らず。
伝へ聞く、古の賢き御世には、あはれみをもって国を治め給ふ。すなはち、殿に茅葺きて、その軒をだに整へず、煙の乏しきを見紛ふ時は、限りある貢ぎ物をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
その時、おのづからことの便りありて(現代語訳)/平安遷都
その頃、たまたま、用事のりいでがあって、摂津の国にある現在の都に行った。その碍所の有様を見ると、その土地は、面積が狭くて、東西、南北の区画を分刮するには及ばない。北は、山に沿って高く、南は、海が近くて下っている。波の音がいつも騒がしく、潮風がとくにひどい。内裏は山の中にあるので、あの木の丸殿(筑前国にあった斉明天皇の御所)もこのようなものかと、かえって、風変わりで、優雅なところもございます。
毎日毎日、こわして、川幅も狭くなるほどに運び流す家は、どこに作ったのであろうか。まだ、空き地は多く、建築した家は少ない。旧都はもう荒廃して、新都はまだ完成しない。おりとあらゆる人は、みな、浮雲のような落ち着かない思いをしている。元から、この場所に住む者は、土地を収毒されて悲しむ。今回移った人は土木工事の苦労があることを嘆く。道端を見ると、牛車に乗るべき人は馬に乗り、衣冠や布衣をりけるべき人は、多くが直垂を着ている。都の風俗は、たちまちのうちに変って、ただ田舎めいた武士と異ならない。
世の中が乱れる前兆とか聞いていたこともはっきりして、日が経りにりれて、世の中が動揺して、人心も落ち着かず、民衆の心配かとうとう空想ではなくなったので、同じ年の冬に、やはり、この京都にお帰りになられた。しかし、一面に皺してしまった、家々は、どうなったのであろうか、全部が全部、元どおりに建てなおされてはいない。
伝え闘くところでは、昔の賢明な帝の御代には。
(帝は)慈愛をもって、国をお治めなさった。すなわち、宮殿に茅を葺いても、軒先をさえ切りそろえなかった。(かまどの)煙が少ないのを御竟になったときは、限られた租税をさえ免除なさった。これは、民に情けをかけ、世の中を救済なさろうとするからである。今の世の有様は、昔に比べて、(悪化していることが)よくわかるであろう。
また、養和のころとか(原文)/養和の飢饉
また、養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春、夏日照り、或は秋、大風、洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は、家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。
京のならひ、何わざにっけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もっくりあへむ。念じわひっつ、さまざまの財物、かたはしより捨っるがごとくすれども、更に目見たっる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり。
また、養和のころとか(現代語訳)/養和の飢饉
また養和の頃であったか、長い年月がたって記臆していないか、二年の間、世の中が飢饉と水不足になって、はなはだひどいことかありました。あるときは春から夏まで日照り(が続き)、あるときは秋に大風や洪水(が発生する)など、よくないことか連続して、穀物か全く実らない。無駄に、春に田を耕し、夏に田植えをする作業かあって、(災害の影響で)秋に稲を刈り取り、冬に収納する騒ぎはない。このことによって、国々の民衆は、あるいは、土地を捨てて国境を越え、あるいは、家を捨てて山に住む。各種のお祈りか始まって、特別な御祈祷も行われるけれども、全くその効果かない。
京都のならわしとして、何事にっけても、物資は田舎を頼りにしているのに、それか途絶えて、輸送されてくる物かないので、そうそう体藪もとりっくろえようか。我慢しきれなくなるにっれて、いろいろの財宝を片っ端から捨てるように売り払うけれども、全く目をつける人かいない。たまに交換する人は、金目の物を安く評価し、穀物を高く評価する。乞食か道端に多くいて、嘆き悲しむ声がいたるところから耳に入ってきた。
前の年、かくの如く(原文)/疫病の流行
前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふに、あまりさへ、疫病うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人、みなけいしぬれば、日を鰹つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつっみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のうら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、歓も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変りゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬、車の行き交う道だになし。
あやしき賤、山がうも、力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけぱ、頼む方なき人は、自らか家をこぼちて、市に出でて売る。一人か持ちて出でたる価、一日か命にだに及ばずとぞ。あやしきことは、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、相交はりけるを尋ぬれば、すべき方なき者、古寺にいたりて、仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。渇悪の世にしも生れあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
いとあはれなることも侍りき。さり難きめ、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて探きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わか身は次にして、人をいたはしく思ふ間に、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、観子あるものは、定まれることにて、観ぞ先立ちける。また、母の命りきたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひりり臥せるなどもありけり。
前の年、かくの如く(現代語訳)/疫病の流行
前の年は、このようにして、ようやく暮れた。翌年は、立ち直るであろうかと思っているうちに、おまけに疫病が加わって、甚だしく悪化するばかりで、以前の痕跡もない。世間の大は、みな、正常でなくなっていったので、日がたうにうれて、極限状態になってゆく様子は、少しの水の中で死にゆく魚のたとえに当てはまっている。最後には、笠をかぶり、足を包んで、相応の身なりをしている者が、もっぱら、家ごとに物乞いして回っている。このように、落ちぶれて精神に変調をきたした人たちは、歩き回っているのかと見ていると、たちまち倒れ伏してしまう。土塀のそばや道喘に、飢え死にする人の類は、数えきれない。(死体を)取り除く方産もわからないので、死臭は周辺に充満して、(腐乱して)変りゆく容貌や姿形は、見ていられないことか多い。まして、賀茂川の河原などでは、(死体があふれかえって)馬や牛車の通行する道さえない。
身分の低い者や木こりも、力が尽きて、(彼らが切り出す)薪さえ欠乏するようになっていったので、頼りにする者のない大は、自分の家を穣して、市に出かけていって売る。一人が持って出る薪の価格は、一日の命を長らえる金額にも及ばないということである。けしからんことには、薪の中に、赤い丹がっいていたり、金箔などか所々に見えたりする木が混じっているのを調査してみると、どうしようもなくなった者が、古寺に行って、仏像を盗み、お堂の仏具を壊し取って、割り砕いた物であった。けがれや罪悪に満ちた末世に生まれ合わせて、このような情けない有儀を見たことでした。
大変悲痛なこともありました。別れられない妻や夫を持っている者は、その思いか強くて探い者(の方)が、先立って死ぬ。そのわけは、自分の身は後回しにして相手をいとおしく思うので、たまたま手に入った食い物をも、相手に譲るからである。それゆえ、観子で共に暮らしている者は、決まったこととして、観が先立ってしまうのである。また、母観の命が尽きたのを知らないで、幼い子が、まだ、乳を吸いながら寝ていることなどもあった。
仁和寺に隆暁法印といふ人(原文)/仁和寺の隆暁法印
仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしっつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、順に阿宇を書きて、禄を結ぱしむるわざをなむせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりけれぱ、京の中、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりにある頭、すべて四万二千三百余りなむありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはぱ、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。
崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしはありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり、めづらかなりしことなり。
仁和寺に隆暁法印といふ人(現代語訳)/仁和寺の隆暁法印
仁和寺において、隆暁法印という人は、このようにしながら(人々か)数知れず死ぬことを悲しんで、死人の首が見えるごとに、順に「阿」の宇を書いて、仏禄を結ばせる仏事をなされた。その人数を知ろうとして、四、五月の二月間数えたところ、京都の中で、一条以南、八条以北、京極以西、朱雀大路以東の道端にあった頭は、全部で四万二千三百あまりもあった。ましてや、その前後に死んだ人も多く、また、賀茂川の河原や白河、西の京、全ての辺鄙な地方などを加えて言うならぱ、きりもないであろう。さらにましてや、畿内以外の全国はなおさらである。
崇徳上皇の御在位の時、長承の頃とかに、このような例があったと聞いているか、その世の状況はわからない。(今回のことは)目の当たりにして、世にもまれな惨状であった。
また、同じころかとよ(原文)/元暦の地震
また、同じころかとよ、おびただしく大地震ふること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて川を哩み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わき出で、巌割れて、谷にまろび入る。渚漕ぐ船は岐にただよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎嗜廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷に異ならず。家の内に居れば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれぱ、地刮れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に、恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか。
かくおびたたしくふることは、しばしにて、止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。世の鴛驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日、二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。
四大種の中に、水、火、風は、常に害をなせど、大地にいたりては、ことなる変をなさず。昔、斉衡のころとか、大地宸ふりて、東大寺の仏の御領落ちなど、いみじきことども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはち、人みなあぢきなきことを述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重な
り、年経にし後は、ことばにかけていひ出づる人だになし。
また、同じころかとよ(現代語訳)/元暦の地震
また、同じ頃であろうか、ものすごく大地が揺れることかありました。その様子は、晋通ではない。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地を水浸しにした。地面は裂けて水が湧き出し、岩は割れて谷に転がりこむ。海岸近くを漕いでいる船は、波に漂い、道を行く馬は、足の略み碍をまごっかせる。京都の郊外では、あちらでもこちらでも、神社仏閣の建物が、一うとして完全なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れてしまった。塵や灰が立ちのぼって、盛んに上がる煙のようである。地面か動き、家が破壊される音は、雷と異ならない。家の中にいれば、すぐに押しつぶされそうになる。走り出れば、地面が割れ、裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。竜であるならば、雲にも乗ろう。恐ろしいものの中で、とくに恐れなけれぱならないものは、まったく、地震なのだなあと思われました。
このようにひどく揺れることは、しばらくして止んだけれども、その余震は、しばらくの間は絶えない。世間で一般的には驚く程度の地震か二、三十度揺れない日はない。十日、二十日が過ぎてしまうと、だんだん間隔がおいて、あるいは一日に四、五度、二、三度、または一日おき、二、三日に一度など、だいたい、その余震は三月ほどもありましたでしょうか。
(仏教でいう)四つの大元秉の中で、水、火、風は、いりも被害を起すけれども、大地にりいては、異変を起さない。昔、斉衡の頃とかに、大地震が起こって、東大寺の大仏の御言か落ちるなど、たいへんなことがありましたが、それでもやはり、今度には及ばないということである。当座は、人々はみな無益なことを言って、いくらか心のけがれも萍らぐと思われた
か、月日か重なり、年数がたった後は、言葉に出して言い出す人さえいない。
すべて世の中のありにくく(原文)/鎌倉時代の格差
すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひりり、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。
もし、おのれが身数ならずして、権門のかたはらにをるものは、探くよろこぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切なる時も、声をあげて泣くことなし。進退やすからず。立居につけて恐れをののくさま、たとへば、雀の麻の巣に近づけるがごとし。
もし貧しくして、富める家の瞬に居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へりらひりり出で入る。妻子、憧僕のうらめるさまを見るにも、福家のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。
もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災をのがるることなし。
もし、辺地にあれば、往反わづらひ多く、盗賊の難はなはだし。
また、勢ひある者は、貪欲深く、ひとり身なる者は、人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛に使はる。世にしたがへば、身苦し。したかはねぱ、狂せるに似たり。
いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しぱしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
すべて世の中のありにくく(現代語訳)/鎌倉時代の格差
だいたい、世の中が生きにくく、我が身と家とが頼りなく、かりそめなものである有儀は、また、このとおりである。まして、場所により、身の上に従いながら心を悩ますことは、一々数えることができない。
もし、自分の身が物の数に入らずして、権力者のそぱに住む者は、探く吝ぶ事があっても、大いに楽しむことかできない。悲しみか痛切なときも大声を出して泣くことがない。挙勲が不安で、日鴛の勲作をするにつけても、恐れおののく様子は、たとえていえば、雀が鷹の巣に近づいているようなものである。
もし、貧乏で、金持の家の瞬りに住む者は、朝も夕も、みすぼらしい娶を恥じて、媚びへうらいながら自宅に出入りする。妻子や召使が(隣家を)うらやましかっている様子を見るにっけても、繁栄している家の人が(自分たちを)軽蔑している様子を聞くにっけても、心が一瞬一瞬ごとに勲揺して、少しの間も安まらない。
もし、狭陸な土地に住んでいると、近くで火災があるとき、その災害を免れることができない。
もし、辺鄙な土地に住んでいると、(都との)往復の煩わしさが多く、鰹賊の危難も非常に多い。
また、権勢家は、非常に欲望が深く、孤独で後ろ盾のない者は、人から軽んぜられる。財産かあると、恐れか多く、貧しいと、嘆きか痛切である。他人を頼りにすると、我が身は他人の所有物となる。他人をかわいがると、心は愛情のために使わされる。世間の價習に従うと、我が身が苦しくなる。従わないと、気が狂っているのと似たようなものである。
どんな場所に住んで、どのような行動をしたら、しばらくでも、この身を置き、少しの問でも、心を安らかにさせることかできるであろうか。
わか身、父方の祖母の家を伝へて(原文)/隠居の理由
わが身、父方の祖母の家を伝へ住む。その後、縁欠けて、衰へ、かりしかど、りひにあととむるこりにして、さらにわが心とIりのを伝へて、久しくかの所に衰へ、しのぶかたがたしげむることをえず。三十あま一りの庵を結ぶ。
これをありしすまひに並ぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋を作るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を迪うるたづきなし。竹を柱として、車をやどせり。雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水の甦も探く、白波の恐れも騒がし。
すべて、あられぬ世を念じiしっつ、心を悩ませること、三十余乍なり。その問、折々のたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春を迎へて家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず。何にうけてか執を留めむ。むなしく、大原山の雲に伏して、また五かへりの春秋をなん経にける。
ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに末葉の宿りを結べることあり。いはば旅人の一夜の宿りをうくり、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これを中ごろのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。
とかくいふほどに、齢は歳々に高く、すみかは折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め作ること、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二両。車の力を報ふるほかは、さらに他の用途いらず。
わか身、父方の祖母の家を伝へて(現代語訳)/隠居の理由
私は、父方の祖母の家屋敷を受け継いで、長い問、その場所に住んでいた。その後、縁が切れて、私白身は落ちぶれ、あれこれと思い出すことが多かったが、とうとう、留まることができず、三十(歳)余りにして、改めて、自分の思いとして、一りの庵を作った。
この庵を以前の住居と比較してみると、十分の一である。ただ居宅を組み立てただけで、しっかりと付属の建物を建造するには及ばない。やっと、土塀を築いたとはいうものの、門を建てる資力はなかった。竹を柱として(車庫を作り)、車を入れた。雪が降ったり、風が吹いたりするたびに、危険でないわけでもない。場所が賀茂川の河原に近いので、水難も深刻で、鰹賊の恐れも不穏である。
だいたい、とんでもない世の中を我慢しながら過ごし続けて、心を悩ましたことは、三十余乍になる。その間、時々に思いどおりにならない事に、自然と、はかない運命を悟った。そこで、五十歳の春を迎えて、出家して、世を捨てた。もともと、妻子がないので、捨てにくい観類縁者もない。自身に、官位も俸禄もなく、何につけて執着を歿そうか。無駄に大原山の雲がかかる山中に住んで、また、五年の歳月を過ごしてしまった。
それで、六十歳の露のようにはかない命が消えかかる頃に及んで、改めて、枝先の葉のような、終の棲家を作ることとなった。たとえて言えば、旅人が、一夜の宿を作り、老いた蚕が、繭を作るようなものだ。これを中乍頃の家に比べると、また、百分の一にも及ばない。
あれこれ言っているうちに、年齢は、年々に老いてゆき、住居は引っ越すごとに狭くなる。その家の儀子は、世間一般のものとも似ていない。広さはわずかに一丈四方で、高さは七尺もない。楊所を思い定めているわけではないので、土地を占有して作ってはいない。土台を組み、簡単な屋根を葺いて、材木の継ぎ目ごとに、掛け金をかけてある。もし、気に入らないことかあったら、簡単に他の碍所へ移そうと思うからである。その改築することには、どれほどの面倒があろうか。積む建築資材は、わずか車二台分で、車を動かす者の労力への観酬以外には、全く他の費用がいらない。
今、日野山の奥に跡を隠してのち(原文)/庵の様子
今、日野山の奥に跡を隠してのち、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の賢子を敷き、その西に間伽棚を作り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そぱに晋賢をかき、前に法華経を置けり。東の際に蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊り棚を構へて、黒き皮無三合を置けり。すなはち、和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴、琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。
その所のさまをいはぱ、南に筧あり。岩を立てて、水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のだより、なきにしもあらず。
今、日野山の奥に跡を隠してのち(現代語訳)/案の様子
今、日野山の奥に疸跡を隠して住むようになってからは、東に三尺余りの庇をさしかけて、柴を折って燃やす落ち着き碍所とする。南は、竹の禄肉を作り、その西に間伽棚を作り、北に寄せて、衝立を隔てて、阿弥陀仏の絵像を据え置き、そぱに晋賢菩薩の絵像をかけ、前に法華経を置いている。東の瘤に、蕨の穂がほおけたものを敷いて、夜の寝床とする。西南に竹の吊り棚を取り付けて、黒い皮を張ったかごを三つ置いている。そして、和歌や音楽の書物、往生要集のような抜き書きを入れている。そのそぱに、琴と琵琶をそれぞれ一つ立てている。世間でいう折り琴、継ぎ琵琶がこれである。かりそめの庵の様子は、このようである。
その碍所の様子を述べると、南に筧がある。岩を組み合わせて水をためている。林の木が近いので、薪にする小枝を拾うには不自由しない。名を外山という。まさきのかずらか道を埋めている。谷は草木か生い
茂っているか、西の方は、見晴らしかよい。西方浄土に思いをはせる便宜かないわけではない。
春は、藤波を見る(原文)/庵の生活
春は、藤波を見る。紫雲のごとくにして、西方ににほふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声耳に満てり。うりせみの世を悲しむかと聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへうべし。
もし、念仏ものうく、騰経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。妨ぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、ひとり居れば、口業を修めうべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何にうけてか破らん。
もし、跡の白波に、この身を寄する朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、満沙弥が風情を盗み、もし桂の風、葉をならす夕には、溥陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし余興あれば、しばしば松の響きに秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸は、これったなけれども、人の耳をよろこぱしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情を養ふばかりなり。
春は、藤波を見る(現代語訳)/庵の生活
春は藤の花を見る。(阿弥陀如来が来迎する時の)紫の雲のようであって、西の方に色美しく咲き誇る。夏はほととぎすの声を闘く。鳴くたびに、冥土の山略の道案内をしてくれるように約束する。秋はひぐらしの鳴き声が耳いっぱいに聞こえる。はかない現世を悲しむのかというように聞こえる。冬は雪を愛でる。積もり消えてゆく儀子は、成仏の妨げとなる罪過にたとえることができる。
もし、念仏か面倒臭く、お経を読むのに本気になれないときは、自分から休み、自分から怠ける。妨げる人もいないし、また、恥ずかしく思うような人もいない。わざわざ無言の行をするわけではないけれども、一人でいるので、(仏教でいう)口を使った言語的行為を正すことができる。必ずしも仏教で禁じられた戒めを守るというわけでなくとも、心を惑わすものがないので、何によって(戒めを)破ることかあろう。
もし、航跡の白波に我が身を比べる朝には、岡の屋を行き交う船を眺めて、満沙弥の歌の風流な趣を剽窃し、もし、桂の木に吠く風が葉を鳴らす夕方には。
(白楽天が琵琶の膏を聞いて作った)溥陽江を思いやって、源軽信の演奏に習う。もし、それでも興味をそそられるものが尽きないときは、何度も松風の音に秋風楽を重ねて合奏し、水の音に合わせて流泉の曲を弾く。芸はたしかに拙劣であるけれども、他人の耳を楽しませるりもりではない。一人で演奏し、一人で歌って、自分白身で情操を育てるだけである。
また、ふもとに一つの柴の庵あり(原文)/友との行楽
また、ふもとにIりの柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。時々来りて、あひとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十、その齢ことのほかなれど、心を慰むること、これ同じ。
或は茅花をぬき、岩梨をとり、零余子をもり、芹をりむ。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、他紙を作る。もし、うららかなれば、峰によぢ上りて、はるかにふるさとの空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。
歩みわづらひなく、心遠くいたる時は、これより峰りづき炭山を越え、笠取を過ぎて、或は石間に詣で、或は石山を拝む。もしはまた、粟津の原を分けりり、蝉丸の翁が跡をとぶらひ、田上川を渡りて、猿丸太夫が墓をたづぬ。帰るさには、をりにっけっっ、桜を狩り、紅葉を求め、蕨を折り、木の実を拾ひて、かっは仏に奉り、かつは家づとにす。
もし、夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。くさむらの蛍は、遠く袱の島のかがり火にまがひ、暁の雨は、おのづから木の葉吠く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰のかせぎの近くなれたるにっけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた、埋み火をかきおこして、老の寝堂の友とす。恐ろしき山ならねば、ふくろふの声をあはれむにりけても、山中の景色、折にりけて尽くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。
また、ふもとに一つの柴の庵あり(現代語訳)/友との行楽
また、日野山麓に、一軒の柴で作った庵がある。それは、この山の番人が住んでいる所である。そこに子供がいる。ときどき訪ねてくる。もし、退屈なときは、この子を友として遊び歩く。その子は十歳、私は六十歳。その年齢はあまりにも離れているか、心をなごませることは同じである。
あるときは、りばなを抜き、岩梨を取り、ぬかごをもぎ取り、せりを摘む。あるときは、山裾の田に行き着いて、落穂を拾って、穂綿を作る。もし、日がのどかであれば、峰によじのぼって、遠く故郷の空を眺め、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。形勝の地は、持ち主がいないものであるから、心を慰めるのに何のさしさわりもない。
歩くのが苦にならず、心が遠くまで行きたいときは、ここから峰伝いに炭山を越え、笠取山を通り過ぎて、あるときは、石問寺に参詣し、あるときは、石山寺を参拝する。もしくはまた、粟津の原を略み分け略み分けして、蜂丸の翁の旧跡を訪れ、田上川を渡って、猿丸大夫の墓を探す。帰る時には、時々に応じて、桜の花を筆貧し、紅葉を探し、わらびを折り取り、木の実を拾って、一つには仏にお供えし、また一つには家へのみやげにする。
もし、夜が伶かであるときは、窓から差し込む月の光に旧友や故人を懐かしみ、猿の鳴き声に涙で袖を濡らす。草むらの蛍は、遠く棋の島の算火に見間違えるほど似ていて、明け方の雨の音は、自然と、木の葉に吠きつける嵐の音に似ている。山鳥がほろほろと鳴くのを聞いては、父の声か母の声かとあやしみ、峰の鹿が近くで馴れているのにっけても、世間から遠ざかっている程度かわかる。あるときはまた、灰の中に理めた炭火をかき起こして、老人の寝起きの友とする。恐ろしい山ではないので、ふくろうの声を趣深く感しるにりけても、山の中の景色は、四季折々に応して尽きることがない。まして、深く思考し、深く道理をわきまえている人にとっては、これだけに限るものではないはずである。
おほかた、この所に住みはじめし時は(原文)/静穏な生活
おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五乍を鰹たり。仮の庵もややふるさととなりて、軒に朽ち葉深く、土居に苔むせり。おのづから、ことの便りに、都を聞けば、この山にこもり居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた闘こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。ただ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。かむなは、小さき貝を好む。これ身知れるによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るるが故なり。われまたかくのごとし。身を知り、世を知れれば、阪はず、わしらず。ただ静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす。
すべて、世の人のすみかを作るならひ、必ずしも身のためにせず。或は、妻子、春属のために作り、或は、観睨、朋友のために作る。或は、主君、師匠及び財宝、馬牛のためにさへこれを作る。われ今、身のためにむすべり。人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。たとひ、広く作れりとも、誰を宿し、誰をか据ゑん。
おほかた、この所に住みはじめし時は(現代語訳)/静穏な生活
だいたい、この碍所に住み始めた時は、ほんのしぱらくのことと思っていたのであるが、今はもう、五乍を経過してしまった。仮の庵も次第に住みなれた所となって、軒には朽ちた落葉か厚く積もり、土台には苔が生えている。たまたま何かのついでに都の様子を聞くと、この山に引きこもっているようになって以後、高貴な人がお亡くなりになった話もたくさん耳に入ってくる。まして、ものの数にも入らない人の類は、全て知り尽くすことはできない。たびたびの火災で滅んだ家は、また、どれほどであろうか。ただ、仮の庵だけが穏やかで、何の恐れもない。面積は狭いとはいっても、夜寝る床があり、昼座る場所もある。我が身一つを宿らせるのに不足はない。やどかりは、小さい貝殻を好む。これは、身の程を知っているからである。みさごは、荒磯に住む。りまり、人を恐れているからである。私もまた、これと同じである。身の程を知り、世間を知っているので、野心を持たず、あくせくしない。ただ、静穏であることを望みとし、不安がないのを楽しみとしている。
だいたい、世間の人が家を作る習慣は、必ずしも自分白身のためにするものではない。ある大は、妻子や一族のために作り、ある人は、観しい人や友達のために作る。ある人は、主君や師匠、及び、財宝や牛馬のためにまで、これを作る。私は、今、自分白身のために(この庵を)組み立てた。他人のためには作っていない。理由は何かというと、現在の世間の習慣、我が身の状況、連れ添う大もなく、頼りにできる召使もない。(そうしたことから)たとえ、広く作ったとしても、誰を宿泊させ、誰を住まわせようか。
それ、人の友とあるものは(原文)/自助の生活
それ、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。必ずしも晴あると、すなほなるとをぱ愛せず。ただ、糸竹、花月を友とせんにはしかじ。人の奴たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あうきを先とす。さらに、はぐくみあはれむと、やすくしづかなるとをば願はず。
ただわが身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするとならば、もしなすべきことあれば、すなはち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりやすし。もし、歩くべきことあれば、みづから歩む。苦しといへども、馬、鞍、牛、車と心を悩ますにはしかず。
今、一身をわかちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。心、身の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めり。まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。ものうしとても心を動かすことなし。いかにいはむや、常に歩き、常に旬くは、養性なるべし。なんぞいたづらに休みをらん。大を悩ます、罪業なり。いかが他の力を借るべき。
それ、人の友とあるものは(現代語訳)/自助の生活
さて、人の友人というものは、富裕な者を尊敬し、観密である者を第一とする。必ずしも人情のある者と正直な者を愛するのではない。ただ、音楽や風流を友とするのに拉したことはない。人の召使である者は、褒発が格別に多く、引き立ての手厚い主人を第一とする。決して、大切にしていりくしんでくれることと、穏やかで静かなことを願わない。
ただ、自分の体を召使にすることには及ばない。どのように召使とするのかというならば、もし、しなければならない事があるときは、いりもすぐに自分の体を使う。だるくないこともないのだが、他人を従え、他人の面倒を見るよりは友楽である。もし、歩かなけれぱならないことがるときは、いっも自分で歩く。苦しいといっても、馬や鞍、牛や車と心を苦しめるには及ばない。
今、私は、我が身を分けて、二りの働きをする。手という召使と足という乗物で、よく私の思いどおりになっている。心は体の苦痛を知っているので、苦しんでいるときは休ませる。体調がよいときは使う。使うといっても、頻繁に使って度を越すことはない。りらくても動揺することはない。まして、常に歩き、常に旬くのは、健康を噌進させるであろう。どうして、無駄に休んでいようか。他人を苦しめるのは、罪探い行いである。どうして、他人の力を借りてよいものか。
衣食のたぐひ(原文)/閑居の気味
衣食のたぐひ、また同じ。藤の衣、麻の会、得るにしたがひて、肌を隠し、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命を継ぐばかりなり。人に交はらざれば、姿を恥づる悔もなし。糧乏しければ、おろそかなる報をあまくす。すべてかやうの楽しみ、富める人に対していふにはあらず。ただわが身一うにとりて、昔と今とをなぞらふるばかりなり。
それ、三界はただ心一うなり。心もしやすからずは、象馬、七珍もよしなく、宮殿、楼閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匈となれることを恥づといへども、帰りてここに居る時は、他の俗塵に馳することをあはれむ。
もし、人、この言へることを疑はば、魚と鳥との有様を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、誰か悟らん。
衣食のたぐひ(現代語訳)/閑居の気味
衣服や食事なども、また同じである。藤の衣や麻の夜具は、手に入れるものにまかせて肌をおおい隠し、野のあたりのよめな、峰の木の実は、かろうして命を保りぐらい(の量)である。他人と交際しないので、姿を恥じる悔いもない。食糧が乏しいので、前世の行いの結果としての粗末な食事もおいしく食べられる。だいたい、このような楽しみというものは、金持に対して言っているのではない。ただ、私一人にとって、昔と今とを比較しているだけである。
そもそも、世界は、ただ、心の持ち方一つである。心がもし、穏やかでないならば、傘や馬、珍しい宝物も無益であり、宮殿や楼閣も欲しいとは思わない。
今、ひっそりとした住居、一間だけの庵、自分はこれを大切にしている。たまに、都に出て、自分自身が乞食のようになっていることを恥ずかしいと思うけれども、帰って、ここにいる時は、他人が、俗世間の煩わしい事に心を向けることを気の毒に思う。
もし、人が、この発言を疑うならば、魚と鳥との儀子を見なさい。魚は、水に飽きることはない。魚でなければ、その友持はわからない。鳥は、林(に住むこと)を願う。鳥でなければ、その友持はわからない。世事を離れてのんびり暮らす気分も、また、同じである。住まないで、誰が理解できよう。
そもそも、一期の月影傾きて(原文)/結末
そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向かはんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま、草庵を愛するも咎とす。閑寂に着するも、さはりなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。
静かなる暁、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひていはく、「世を遁れて、山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。すみかは、すなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、たもりところは、わづかに周利槃特が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賎の租いの、みづから悩ますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか」そのとき、心さらに答ふることなし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して止みぬ。
時に建暦の二乍、三月の晦ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。
そもそも、一期の月影傾きて(現代語訳)/結末
さて、一生の月が傾いて、余命は(いくばくもな
く、月が沈む)山の喘に近い。瞬く問に、死に向かおうとしている。何の行いにっいて不平を言おうか。仏がお教えになる御趣意は、何事についても、執着する心を持ってはならないということである。今、草庵を愛することも、罪となる。ひっそりとした静けさに執着することも、(往生の)さしさわりとなるであろう。どうして、不要な楽しみを記述して、せっかくの時間を過ごそうか。
静かな明け方、この道理を思い続けて、自分から心に問うて言うには、「世間を遁れて、山林にまぎれこむのは、心を修養して、仏道を修行しようとするためである。それなのに、お前は、姿は僧であって、心は煩悩に染まっている。家は、浄名居士の住居跡をまねているといっても、保っているところは、わずかに (釈迦の弟子で愚鈍であった)周梨槃特の修行にさえ及ばない。もしかすると、これは、貧乏で身分が低いことの租いか自分自身を悩ませるのか。それともまた、迷った心が窮まって、(自分自身を)狂わせているのか」その時、心は、全く答えることがなかった。ただ、りいでに舌を使って、いやいやながら、南無阿弥陀仏と二、三回申して、やめてしまった。
時に、廸暦二年三月末頃、僧侶の蓮胤が、外山の庵で、これを記す。
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