フィンセント・ファン・ゴッホ
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ゴッホといえば、日本でも知らない人はいないというほど有名ですね。
ゴッホというと『ひまわり』などの代表作から連想させられる黄色のイメージ。或いは、渦のようにうねる筆遣いを連想する方も多いのではないでしょうか?しかし、実はそれらは晩年の数年間に書かれたものに過ぎません。
では、ゴッホはどのようにして鮮やかな色使いや大胆な筆遣いに行き着いたのか?
ゴッホの生涯を見ていきましょう。
1853年にオランダで牧師の子としてゴッホは生まれます。ゴッホが画家を目指し始めたのは27歳から。弟のテオの勧めで画家になることを決意します。そのゴッホに絵の手ほどきをしたのは従姉妹の夫であるアントン・マウフェという人。この人はハーグ派といって大地を思わせる暗い色を用いて、農民の生活や田園風景を描いていた人たちの総称です。ですから、当時のゴッホの作品は『ひまわり』などと比べるととても色使いが暗いのがわかります。
(ジャガイモを食べる人々1885年)
最初の本格的な作品といわれている
(陶器と洋梨のある静物・1885年)
その後、父の死や人間関係のもつれなどから、パリの画商で働く弟のテオのもとへ身を寄せるようになります。当時、フランスでは新印象派と呼ばれる人たちが活躍しており、ゴッホも弟から紹介された”タンギー爺さん”の店で若い画家たちを交流を持つようになります。
この頃から、ゴッホの色彩は徐々に明るくなり、日本の浮世絵を意識するようにもなっていきます。
(麦畑・1888年)
(おいらん・1887年)
ゴーギャンと出会ったのも、この頃です。
35歳の時に都会暮らしにも疲れ、芸術家たちとの共同制作を夢見てゴッホは南フランスのアルルに旅立ちます。そこでただ一人やってきたのは友人のゴーギャンのみ。二人は「黄色い家」で共同生活を始めますが長くは続かず、口論の末、ゴッホは耳切事件を起こします。
(耳を自ら切って包帯を巻いている自画像)
この事件でゴーギャンはパリへ。その後、ゴッホは精神状態が不安定となり、自らサン=レミの精神療養院に入院します。発作に耐えながらも多くの作品を制作し、この頃からゴッホのうねるような筆づかいが始まります。
(1890年・糸杉と星の見える道)
1890年7月6日、パリに住む弟テオを訪れますが、その時にテオの困窮を知ることなります。ゴッホの存在が弟テオの一家の生活にまで迷惑をかけていることに気がつくのです。
7月27日、ゴッホはピストル自殺を図り、7月29日、テオに看取られながらこの世を去ります。37歳でした。そのゴッホを追うように翌年1月弟テオも亡くなるのでした。
今では、知らぬ人がいないほど有名なゴッホですが、彼の絵は生前「赤い葡萄畑」という絵が1点400フランで売れただけだと言われています。
(1888年・赤い葡萄畑)
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