赤穂浪士
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赤穂浪士といえば、四十七士というのが一般的ですよね。討ち入りした浪士の数が47人だった為に映画や小説、漫画などでは四十七士が定説となっています。
しかし、実は、本当に47人だったのか?本当は46人だったのか?はっきりとしていないんです。
赤穂浪士が江戸郊外の吉良邸に討ち入りしたのは、元禄15年(1702年)の12月14日の深夜。ですから、かつては必ず年末になると赤穂浪士の討ち入りを描いたドラマ(忠臣蔵)がどこかの局で放送していました。
しかし、実際の赤穂浪士はドラマとは違い、バラバラの服装でバラバラに集まった後に表門と裏門に分かれて侵入しています。
この時の討ち入りが47人であったというのですが、これは竹田出雲によってかかれた『仮名手本忠臣蔵』が四十七士としていたから、その後の作品でも当たり前のように47人となってしまったのです。
しかし、出雲が四十七士としたのは、外題をつけるにあたって47人であれば「いろは」の47文字と同じなので「仮名手本」という外題をつけることができ、都合がよかったためといわれています。46人では、なかなかかっこいい外題が思いつかなかったんでしょうね。
とはいえ、46人の浪士ははっきりしていますので46人は間違いなく討ち入りしています。問題なのが47人目の寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)。
赤穂浪士は討ち入りを果たした後、現在の勝鬨橋(かちどきばし)あたりで勝どきをあげ、その後、浅野家(赤穂藩藩主、この人が吉良上野介といろいろあって自刃に追い込まれたため、仇討ち事件の始まりとなった)の菩提寺である泉岳寺(せんがくじ)に向かい、墓前に報告を済ませると浪士たちは自首しました。
しかし、寺坂吉右衛門は、泉岳寺に着くまでにはいなくなってしまっています。もし、討ち入り後に姿を消したのであれば、討ち入りは47人であったことになりますが、討ち入り前に逃げてしまっていたとすれば討ち入りは46人となります。
なぜ寺坂吉右衛門は姿を消したのか?最近では、討ち入り後に密命を受け姿を消した寺坂吉右衛門の姿を描いた作品なども制作されています。この人だけは、足軽の身分でしたからね。まぁ、皆と違って別の命を受けたとしてもありえない話ではありませんね。
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