歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記平将門の乱を分かりやすく解説

平将門の乱 935年〜940年 

  
   
 
 平将門の乱
(たいらのまさかどのらん)とは、平将門が朝廷に反旗を翻し、関東一円を手中に収め、自らを「新皇」と名乗った出来事です。

 では、その
平将門の乱について、もう少し詳しく見てみましょう。

 その頃、朝廷は地方の政治は国司にまかせっきりで、国司は一定量の税さえ納めていれば、あとはやりたい放題でした。

 そんなもんだから、国司は税率を勝手にかえて残りは自分の財布に入れてしまったり、任期が切れているにも関わらず居座り、財力や武力を蓄えたり・・・。

 こんな状態ですから、地方の治安は悪化していき、様々な人が武装し始めます。小武士の登場です。また、何度も同じ地方の国司となった中・下級貴族がそのまま居座り、小武士をまとめ上げ大武士団の棟梁となるケースも出てきます。その代表格が桓武天皇の血を引く
桓武平氏や清和天皇から出た清和源氏です。

 平将門のおじいさんは、上総の国の国司として赴任しますが、任期後もその地に居座り勢力をどんどん拡大していきました。そして、その地の権利を守る為に武士団を形成することになります。

 そうやってどんどん強大な勢力を手に入れていく訳ですが、平将門の父、良将(よしまさ)の死をきっかけに相続争いが起こります。

 935年に平将門は叔父を殺害。939年には対立する従弟の平貞盛(さだもり)の引渡しを常陸国府が断った為、平将門は国府をも攻撃してしまいます。

 国府など攻撃してしまっては、朝廷が黙っている訳がありません。

 「もう、いいや。行けるとこまで行っちまえ。」と思ったのか?「もしかしたら、日本の頂点に立てるかも?」と思ったのか?わかりませんが、平将門は関東八カ国の国府を次々に攻撃。国司を追放し、ついに「新皇」と自らを名乗ります。

 しかし、案の定。朝廷がついに動き出します。藤原忠文
(ふじわらのただふみ)を征東大将軍に任命し、鎮圧の為に派遣。

 ですが、結局は朝廷軍が到着する前に平将門は地元の武士、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛により打たれてしまうのです。

 この
平将門の乱と時、同じくして、瀬戸内海では藤原純友(ふじわらのすみとも)が海賊を率いて反乱を起していました。こちらも、結果は源経基(みなもとのつねもと)らによって鎮圧されます。

 この
平将門の乱藤原純友の乱は、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)とも呼ばれます。

 この2つの乱はどちらも武士によって鎮圧されたことから、武士のもつ力が注目され始める切欠となっていきます。


 
 藤原純友の乱 
939〜941年
       平将門の乱 
935〜940年
   承平・天慶の乱  
     


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平将門の祟り