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新野・樊城の戦い


 三国志演義には、
新野・樊城の戦い(しんや・はんじょうのたたかい)という話が書かれております。ですが、これは正史には書かれておらず、フィクションであるといわています。

 新野・樊城の戦いは、劉備の参謀として加わっていた徐庶(じょしょ)という人物が大活躍する場面です。





 劉備に諸葛亮という優秀な人物がいるから会うようにと勧めた人物が徐庶ですね。

 徐庶という人は、撃剣の使い手で人に雇われ仇討をして役人につかまってから心を入れ替え学問に専念したといわれています。

 時代は、劉備が新野に駐屯していた頃。当時、荊州の樊城には、曹操側の曹仁という従兄弟が駐屯していました。この曹仁が劉備のいる新野に攻撃をしかけていきます。

 しかし、劉備軍は趙雲、関羽、張飛らの活躍により、見事撃退!この敗戦を聞いた曹仁は、今度は樊城にいた全軍にて新野に攻撃に出ます。しかし、これも劉備軍によって撃退されます。劉備の参謀であった徐庶が曹仁の陣形を見破り、趙雲の騎馬隊を突入させて陣形を崩し粉砕したのです。

 しかし、曹仁はあきらめません。今度は、夜襲にでます。ですが、これも徐庶に見透かされ、逆に曹仁の陣に火を放たれます。そして、またまた趙雲の出番!混乱する曹仁の軍に斬りかかります。逃げ惑う、曹仁軍。樊城に逃げるしかないという決断で城に戻ると待ち構えていたのは関羽!!!

 もはや、どうにもならん!と曹仁は曹操のもとへ敗走するのでした。

 これを知った曹操は、どうしても徐庶を自分の軍に迎え入れたい。そこで、徐庶の母を人質にし、陣営に加わらなければ、母を殺すと脅します。

 母思いの徐庶は、劉備のもとを離れ、曹操のもとへと向かいます。

 三国志演義では、この劉備のもとを去る時に劉備に諸葛亮を紹介して去っていっています。

 結局、母は無事でしたが、自身を助けに来た息子に激怒!「せっかく、劉備殿というすばらしい主君を得たのにその主君を裏切るとは何事か!」と徐庶を叱りつけます。そして、母はみずから命を絶ってしまうのでした。

 その後、徐庶は曹操のもとに留まりますが、あまり重用されることもなく、後に諸葛亮が徐庶の官職を聞き知った際には、なぜ重用されないのかと嘆いたといわれています。
 

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