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シンガポールの歴史


 マレー半島の先っぽにあるシンガポール島を中心として63の島々からなる国。それがシンガポールです。国土面積は716キロ平方メートル。東京都と同じくらいの大きさです。

 資源もなく国土も小さなこの国がどのようにして観光旅行や移住先として人気の高い都市国家へと成長していったのか?シンガポールの歴史からその辺を紐解いていってみましょう。



 そもそもシンガポールには、セマン族やサカイ族といった先住民がおりましたが7世紀になるとスマトラ島からマレー半島を支配したシュリーヴィジャヤ王国の人々がやってくるようになります。

 そして、漁村を構成し交易地として有名になっていきました。

 13世紀末にはヒンドゥー王朝のマジャパヒト王国によって支配されるようになり、貿易拠点として大いに栄えていきます。14世紀にはサンスクリット語でライオンの街という意味のシンガ・プーラと呼ばれるようになります。

 15世紀にはマレー系イスラム国家であるマラッカ王国が台頭。しかし、16世紀初頭にはポルトガルにマラッカ王国が滅ぼされます。

 その後はわびしい漁村と化していたシンガ・プーラでしたが、ポルトガルに遅れイギリス東インド会社の社員のトーマス・スタンフォード・ラッフルズがこの地に目をつけます。この人は、ボロブドゥール遺跡やラフレシアの発見をした有名な人です。

 ラッフルズは、この地を買収するとイギリス風にシンガポールと名を変え、関税のかからない自由貿易拠点としました。自由貿易によりシンガポールは発展を遂げ、マレー人や華人、インド人などがこの地に移り住むようになります。

 
日本の侵攻とシンガポールの独立

 1941年になると太平洋戦争が始まります。日本はイギリスの拠点であるシンガポールに侵攻。1942年には日本軍がこの地を昭南島と改名しました。しかし、1945年には日本軍は敗戦と共に撤退。いったん、シンガポールはイギリスの手に戻りますが、1957年にマレーシアがマラヤ連邦として独立すると1963年にはシンガポールもマラヤ連邦の一員となります。

 ですが、マレーシアの地域にはマレー人が多くいます。一方のシンガポールにはマレー人もいますが華人やインド人なども住んでおります。マレーシアとしてはマレー人を優遇するわけですが、シンガポールの人たちの中には、当然、それに反感を覚える人も多くいるわけです。

 次第に両者間で人種対立が激しくなり、妥協案としてシンガポールは連邦政府追放という形で分離独立するのでした。

 シンガポールは、こうして1965年に独立するわけです。しかし、はっきり言って望んだ独立ではありません。何しろ、シンガポールには何もないんですね。

 まず、資源がない。それどころか、四方を海に囲まれ山も少ないので水すらない・・・。イギリス軍も撤退したので国防もヤバい・・・。天然ゴムなどの産出資源を持つマレーシアから斬り捨てられたので経済基盤もない!

 
リー・クアン・ユーの登場

 この絶望的な状況の中、シンガポールの発展に大きく貢献したのがリー・クアン・ユーでした。シンガポール独立時の首相がリー・クアン・ユーです。

 リー・クアン・ユーは、兎に角、いろいろな政策を行っていきます。



 
国民の貯蓄促進と住宅開発

 リー・クアン・ユーは、国民の生活を安定させるために国民の給料から一定割合で国が天引きして強制的に貯蓄させるという方法をとります。これによって、国民の資産は形成され暮らしが安定していきました。また、それらの溜まったお金で国が供給する良質な住宅を購入。国民の生活が安定し国債の信用にもつながりました。

 
税制

 また、税制も下げます。シンガポールでは法人事務税や法人住民税のような税金はなく法人所得税だけです。また、損金の繰り越しや赤字企業の税務免除など企業としては税金の面でかなり有利なんです。するとどうなるか?シンガポールに企業を移したり、新しく会社を作るのに自分の国ではなくシンガポールに本社を置こうと考える人が増えるんですね。

 中国のケ小平もリー・クアン・ユーにこの辺の税制のやり方を学びに来ています。

 
教育

 まず、そもそも問題なのが公用語です。シンガポールには、マレー人、華人、インド人などがおりますからマレー語、中国語、、英語、タミール語と多言語が入り乱れています。リー・クアン・ユーは英語を話していましたので公用語は英語にしたいところでしょうが、そんなことをすれば他の言語を話す民衆から反感をかいます。ですから、公用語はマレー語、中国語、英語、タミール語すべてとしました。自身は英語を話しますが、息子には中国語を学ばせるなど反感を抑えるべき対応をとります。

 また、シンガポールという国は交易地としてのメリットがあります。その立地を考えればグローバル展開を考える中国系企業や欧米の企業を誘致することがシンガポールにとって有益になります。そういった企業を誘致する上でも多くの国民が多くの言語に慣れ親しんでいるというのは国のメリットになりました。

 また、高度な教育が秩序と富をもたらすとリー・クアン・ユーは考え、エリート教育を推進。高学歴女性の出産を奨励するといった政策も行いました。

 
観光

 多くの企業を誘致し経済が活性化していくと交通問題が発生します。そこで、交通網の整備とともに都市部にはライセンスを購入した車しかはいれないようにしました。こうして、渋滞のない都市を実現。

 また、チューインガム禁止令なども導入されています。街を汚さないためですね。さらに英語が伝わるというのも観光地としてのメリットでしょう。

 こういった努力のすえ、現在シンガポールには世界中から多くの観光客が押し寄せ、治安もよく、多くの富裕層が移住を希望する国となっていきました。

 水すら出ない国家を都市国家へと導いたリー・クアン・ユー。強制的な国民の貯蓄や高学歴女性の出産奨励など反感もかうなかで試行錯誤しながらも1990年まで首相を務め、その後も上級相、内閣顧問として活躍。資源のない国が国際レベルに追いつくには人材がもっとも大切という考え。我々、日本人もいまいちど学ぶ部分は大いにありそうです