歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記三国志赤壁の戦い

赤壁の戦い


 
赤壁の戦いといえば、三国志ファンなら誰もが知る有名な戦いですね。映画などにもなっています。

 しかし、実は、正史三国志では「曹操軍は疫病や船酔いで兵士の士気が落ちたところに孫権軍の火攻めにあって大敗した」とわずか数行が書かれているだけ・・・。

 しかし、その後に描かれた三国志演義では、この赤壁の戦いを脚色しドラマチックに書かれております。

 では、この赤壁の戦いとは、どんな戦いであったのか。実際の時代背景なども踏まえ詳しく見ていってみましょう。

 
曹操南征を開始

 官渡の戦いにて袁紹に勝利した曹操。残った袁紹の息子たちも討伐し終えると曹操はすでに中国の北半分を手中に収めている状態でした。

 この時点で残った主な勢力は荊州の劉表、揚州の孫権、益州の劉璋、涼州の馬騰ぐらいなものです。

 その中で曹操が狙いを定めたのが荊州の劉表でした。

 その劉表のもとに身を寄せていたのが劉備達。新野に城まで与えてもらうという歓迎ぶりで迎え入れられていたんです。

 劉表は平和を愛するおだやかな人物であったため荊州の周辺は戦乱とは無縁な平和で豊かな地域でした。ですから、司馬徽などといった知識人が戦を逃れて移り住んおりました。劉備がやはり戦乱をさけ移り住んでいた諸葛亮と出会ったのもこの地です。

 ですが、その劉表も高齢。なんと劉表は曹操が到着する前に亡くなってしまうのでした。後を継いだのは劉表の次男の劉琮。しかし、彼は、曹操と戦わずして降伏を決断してしまうのです。

 慌てたのは劉備たち。大至急、全軍で南東の江夏に逃げることを決意します。諸葛亮は「劉琮を討ってしまいましょう。そうすれば、荊州を手に入れられます」と進言しますが、劉表に恩義がある劉備は、それを聞き入れることはしませんでした。

 出発した劉備を慕い、荊州の領民たちが十数万人もついてきます。

 「領民など足手まといです。彼らは置いて先を急ぎましょう。」という声が上がるなか、劉備は「自分に身を寄せているのだから、見捨てることなどできようか」と彼らを守りながらの退却を続けました。

 劉備が去った後、曹操は難なく新野を手に入れ、荊州の都に入ります。このため、曹操軍は無傷、さらに荊州の軍も無傷のまま曹操軍に飲み込まれることになりました。

 そして、曹操は逃げた劉備を捕えるため5000の兵を向かわせます。

 領民たちを従えての移動。さらには、当然荷物もいっぱい・・・。関羽に数百の船を支度させて民間人の多くを船にのせ関羽とは江陵で落ち合うことにしますが、船に乗れなかった民間人は劉備らとともに陸地を進みます。そんなもんだから、ついに曹操軍の先鋒隊に当陽の長坂で追いつかれてしまうのです。



 
長坂坡の戦い

 激しい戦いとなり、劉備、張飛、趙雲、諸葛亮らは再開を信じて逃走。劉備も妻子と離れ離れで逃げることになります。

 そんな中、劉備の世継ぎである阿斗(あと・のちの劉禅)が行方知れずとなったことに気づいた趙雲。なんと大軍の中を単騎で駆け抜け、見事に阿斗を救出。さらに劉備の妻である甘夫人まで救います。

 三国志演義によれば、この時、趙雲は敵の武将を槍で突き刺し、その数は50人にもなったと記されています。

 劉備の義兄弟、張飛も負けていません。殿(しんがり)を任されていた張飛は味方の退却を見届けて長坂橋まで来たとき、ここに踏みとどまり曹操軍を待ち構えます。しかし、わずか20騎の部下しかいません。ですが、張飛は大声で叫びます。

 「我こそは超益徳である。いざ死をかけて戦おうぞ!」

 曹操軍にしてみれば、これは何かの策があるんじゃないか?と疑い近づこうとしません。この張飛の活躍により、劉備たちは無事に江夏まで逃げ延びることに成功します。

 
孫権・劉備同盟

 戦わずして劉琮を降伏させた曹操。次なる狙いを揚州の孫権に定めます。曹操は、孫権へ降伏を勧める書簡を送りつつ、対孫権戦を踏まえて準備を進めます。

 孫権側は、「曹操はすでに漢の献帝を擁し、軍も強大。無謀な抵抗などすれば、民を危険にさらすだけ」という、降伏派。「いや、曹操は献帝をないがしろにしている。打倒すべきであり、降伏などもってのほか」と周瑜をはじめとする主戦派の間で頭を悩ませます。

 そこへ腹心のひとりである魯粛が「私が荊州へいって情報を集めてまいります」と進言し、孫権はそれを許しました。

 魯粛は主戦派。曹操と幾度となく直接戦っている劉備に会って話を聞きたいと思ったのでした。

 劉備にとっても魯粛の訪問は渡りに船。諸葛亮の「
天下三分の計(漢帝国復興のためには、まず天下を3つに分かち、その後大陸統一を目指す)」の実現のためには孫権の協力が不可欠であったためです。

 孫権軍にしても単独で曹操と争うのは難しい。両者の思惑は一致します。

 劉備は、同盟の使者として諸葛亮を派遣し、魯粛と共に孫権のもとへ急がせました。

 二人が孫権のもとにたどり着くと主戦派の周瑜に協力を仰ぎ、孫権の説得にあたります。

 「曹操軍の兵は荊州の兵など心から曹操に心服しているわけではありません。戦力になるのなんてせいぜい十数万でしょう。しかも、曹操軍の古株たちは北方出身。陸上の戦いには慣れていますが、船の上での争いには慣れていません。さらに不慣れな土地に長居すれば疫病にも見舞われます。勝機はこちらにあり、3万の精鋭で必ず曹操軍を打ち破ります!」

 彼らの説得により、孫権は開戦を決意。俗に曹操軍80万。孫権、劉備同盟軍約5万が争う「
赤壁の戦い」の幕開けとなります。(曹操が水軍80万で攻めるぞ!と孫権におくった手紙から曹操軍80万といわれていますが、実際にはもともとの30万の兵に荊州の10万を加えた40万といわれています。孫権、劉備同盟は孫権軍10万、劉備軍2000ともいわれています。)

 
赤壁の戦い開戦

 208年11月、周瑜の水軍は、夏口を経た時点でついに曹操軍と遭遇します。その場所こそが赤壁。曹操軍は、大軍でしたが疫病が流行しており、さらには不慣れな水戦で船酔いに苦しめられる兵もおり、最初の小競り合いでは周瑜の快勝!

 その後、曹操軍は長江の北岸に停泊し、周瑜は南岸に対峙します。そして、曹操はこれ以降鉄壁の守りに入り、周瑜の攻撃も何度かしかけるも撃退されます。

 三国志演義では、その後の赤壁の戦いがドラマティックに描かれていきます。



 
10万本の矢を集めよ

 水上の戦いでは、多くの矢が必要。そして、諸葛亮の才能を恐れた周瑜は、コイツは後に面倒な人物になうると考え諸葛亮に無理難題を突き付け処断してしまおうと考えます。

 「10万本の矢を集めてきてほしい」と無理を承知で依頼する周瑜。しかし、諸葛亮は「では、3日で用意しましょう」と豪語しました。誰もがそんなことは無理だと考える中、諸葛亮は魯粛に頼んで船団を用意すると曹操軍に接近させます。船には藁束を満載させおき、それを敵襲だと勘違いした曹操軍が矢を雨のように降らせました。

 諸葛亮は、ころあいを見て船を引き揚げさせると船に積んだ藁束には矢がびっしり刺さっており、見事に10万本以上の矢を手に入れることに成功します。

 
諜報合戦

 曹操は使者として蒋幹という周瑜と顔なじみの人物を周瑜の陣に送り込みます。周瑜と孫権の仲を引き裂こうとしたのです。しかし、周瑜は逆に蒋幹に蔡瑁、張允が曹操の殺害をたくらんでいるという内容の偽の手紙をつかまされ曹操に届けてしまいます。蔡瑁、張允は水軍の指揮をとっている人物。偽の手紙を読んだ曹操は、この重要な人物二人を周瑜の計略にはまり殺してしまいます。

 また、曹操は蔡中、蔡和(二人とも演義に描かれた架空の人物)という二人のスパイを送り込みますが、これも周瑜に見破られ利用されていくことになります。

 
苦肉の計

 孫家3代に仕えてきた老将、黄蓋は周瑜に火攻めを進言しました。それを妙案と見た周瑜は、その策を採用。それが、苦肉の計です。

 ある時、皆が集まる中、黄蓋は曹操への降伏を説き、これを見た周瑜は怒り狂い、黄蓋を100回の杖刑に処しました。

 血だらけになって、やっと許された黄蓋。「もうやってられん!」と黄蓋は曹操へ「自分を臣下に加えてくれ」と手紙を送るのでした。

 膠着状態を打破できるかもしれないと喜ぶ曹操。しかし、彼はさすがに疑り深い人物。スパイとして送っておいた蔡中と蔡和に話を聞きます。

 すると「確かに黄蓋は皆の前で刑罰を受けてましたよ。ありゃ、酷いですね~」という回答。これで曹操は完全に信じてしまいます。しかし、彼らがスパイであるとすでに知っていた周瑜にとっては、これも計算の内。知らぬ間にうまく利用されていたわけです。

 老将、黄蓋が手に入れば、戦局がこちらに傾くやもしれぬ!黄蓋が投降する手筈を整え、曹操は黄蓋を待ちわびるのでした。

 
連環の計

 苦肉の計により、見事に曹操をはめることに成功。しかし、火攻めは、船が散り散りになっていると効果がありません。

 頭を悩ませる周瑜に龐統という人物が策を授けました。龐統という人は、後に劉備の軍に入ることになりますが、当時は戦乱を避けて江東に住んでいました。

 その龐統が授けたのが連環の計。船をつながせてしまえばいいというものです。

 周瑜は、またしても蒋幹を利用します。蒋幹と龐統を引き合わせ曹操に連環の計を実行させるように仕向けるのでした。

 曹操は、有名な龐統という人物が訪問してくれるというので歓迎します。そして、みずから陣を案内。しかし、龐統は浮かぬ顔をします。

 「兵たちは船酔いしているようですなぁ」

 では、どうすればいいか問う曹操。龐統は、船を環でつないでしまうがいいでしょう。そうすれば、船は揺れなくなります。曹操は、さっそくこれを取り入れます。

 
諸葛亮、風を呼ぶ

 さて、龐統により船はつながれました。後は、火攻めをするだけですが、心配なのが風。風がうまいこと吹いてくれないことには、火攻めの効果も薄れてしまいます。

 そこに現れたのが諸葛亮。

 「私が、天の力を借りて東風を吹かせましょう」

 諸葛亮は、南屏山に壇を築かせ祈ります。すると、見事に東風からの風が吹いてきたのでした。

 今こそが最良の時と踏んだ周瑜は、黄蓋に船を準備させました。

 赤壁燃ゆ

 曹操の陣に向かって船団が向かってきました。待ちかねていた黄蓋の船です。曹操に投降することになっていましたから、やっと来たかと曹操は油断どころか歓迎の準備。

 しかし、曹操軍のすぐ近くまでくると黄蓋は刀を振り上げ合図を出すのでした。ほし草や火薬を積んだ船団が一斉に火を放ち、曹操軍の船団に向かってきます。さらには東風にあおられ、長江の水と空は真っ赤に染まるのでした。

 
赤壁の戦いの嘘・本当

 さて、有名な赤壁の戦いですが、コレ、どこまでが本当でどこからが創作なのか?気になるところですね。

 まず、10万本の矢。コレは創作です。苦肉の計も創作ですが、黄蓋が偽の投降で油断させたのは本当。諸葛亮が風をよんだというのも三国志演義にだけ書かれた創作です。

 また、意見がわかれるところでは、劉備の活躍です。劉備は、赤壁の戦いでは、関羽や張飛と共に後方に布陣して戦況を伺っていただけで何もしていないと言われています。演義でも本格的な戦闘が始まると活躍してませんね。劉備軍で活躍するのは、諸葛亮くらいなものです。ですから、赤壁では、劉備は何もしていないと思われていますが、実際には劉備軍も積極的に参戦していたといわれています。

 曹操側の「武帝紀」によれば「曹操は赤壁に到着し、劉備と戦うが、負け戦となった。疫病が大流行したため、撤退した」とあります。「山陽公載記」にも「曹操は軍船を劉備のために焼かれ、徒歩で引き上げたが、弱った兵は人や馬に踏みつけられ、泥の中に落ち込み、多くの死者が出た」とあります。曹操側では、劉備に負けたという認識のようです。

博望波の戦い


劉備、孫権の妹と結婚する