歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記>征韓論の内容と原因

   

征韓論


 1871年、11月のこと。明治政府は日本が海外の国々に追いつくためには、実際に見て学ぶ必要があると政府の重要人物達を海外に派遣します。

 メンバーは、
岩倉具視(いわくら ともみ)をリーダーとし、大久保利通(おおくぼ としみち)、木戸孝允(きど たかよし)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)という豪華な顔ぶれと留学生が60名ほど・・・。

 彼らは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを2年間かけて渡り歩いていきます。当時のアメリカにはすでにエレベーターがあったというから、彼らは急に未来に連れてこられたような気分であったかもしれません。

 さぁ、彼らが海外で進んだ文化を目にしている頃、日本では留守中の政府を預かった
西郷隆盛(さいごう たかもり)、板垣退助(いたがき たいすけ)らが隣の国、朝鮮に不満をつのらせていました。当時の日本と朝鮮は国交断絶状態。日本は何度か国交回復を提案するが拒否されておりました。

 ならば、武力行使でもかまわないから朝鮮に開国を迫ってしまえ!という過激な発言も出てくるようになります。この考えを
征韓論(せいかんろん)といいます。

 しかし「ちょっと待て!これは、非常に重要な問題だから、せめて今、海外に行っている岩倉らが帰ってくるまで結論をだすのを待とう。」ということになりました。

 そこに帰ってきた海外視察組。彼らは、西郷、板垣らの考えに顔をしかめました。いや、そんなことより、まず国内の政治制度を充実させるほうが先決。しかも、今の日本で朝鮮に武力行使などしたら欧米は黙って見ていないだろう、と冷静な判断を下します。

 海外の進んだ文化を目にした大久保、木戸らと彼らの留守中に日本も近代化が進んだはずだと自負する留守番組の板垣、西郷らには考えには差が出てきてしまっていたのです。

 そして、このふたつの主張が政府を真っ二つに分け、結局、朝鮮へ使節派遣は取りやめ、西郷ら5人が辞職し、いったんは決着となります。(
明治6年の政変


 しかし、その後、西郷隆盛は
西南戦争で板垣退助は自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)にて政府に対抗していくことになるのです。

 ちなみに、政府を分裂させてまで争った征韓論でしたが、1875年には日本海軍の船隊が朝鮮の江華島付近で砲撃にあい、日本は報復にでて江華島を占拠します。その翌年には、当時朝鮮を治めていた李氏朝鮮を武力で開国させることになるのです・・・。うーん、結局、征韓論反対派が残った政府が武力行使で朝鮮に開国を迫ったわけですから、政府を追い出された板垣、西郷はどう思ったでしょうね。

 

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征韓論の真実

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板垣退助と自由民権運動
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