歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記古代ギリシアの歴史ペルシア戦争

   

ペルシア戦争 


 
ペルシア戦争とは、アケメネス朝ペルシア帝国VSギリシア連合の3度に渡る対決です。

 始まりは紀元前500年から始まり、終結は紀元前449年。カリアスの和約という平和条約が結ばれて終結となります。

 では、このペルシア戦争のきっかけと終焉までを簡単に見ていきましょう。



 
イオニア植民市の反乱(BC500年)

 当時、周辺の地域を次々に征服、撃退し大帝国となっていたペルシア。このペルシアから支配を受け、重税などの圧力を掛けられていたのが小アジアのイオニア人植民市。その中でも特にペルシアからいじめられていたのがイオニア人植民市のミレトスという町です。まぁ、ミレトスという町は、ギリシアの都市国家のひとつアテネと仲がよかったというのでペルシアにしたら、気にくわなかったんですね。

 当時のペルシアとギリシアの間では、地中海や黒海での商業圏をめぐる対立がありましたからね。

 そして、ついに、いじめられていたミトレスの住民を中心としてイオニア植民市はペルシアに反乱を起します。BC500年のことです。彼らの後ろ盾となったのはアテネでした。

 これが、ペルシア戦争のきっかけとなります。

 
第1回ペルシア戦争(BC492年)

 反乱の介入をやめようとしないアテネに対して遂にペルシアは軍を派遣します。当時のペルシア大王は
ダレイオス1世

 まず、ペルシア軍はギリシアの北側トラキアを制圧。このまま海を渡ってギリシア本土を攻撃してやろうと艦隊を派遣するのですが、途中暴風に遭い、そのまま引き返す羽目になります。

 まずはギリシアの不戦勝ですね。

 
第二回ペルシア戦争(BC490年)/マラトンの戦い

 ペルシアもこのまま引き下がる訳にもいかない!ってことで再度攻撃を仕掛けてきます。

 ペルシアの軍はエーゲ海の島々を攻略し、アテネのすぐそば、マラトンという地域に上陸。アテネはスパルタに援軍を頼みますが神事で派遣を断られます。一緒に戦ってくれたのはプラタイアイという小さな都市国家。このプラタイアイという都市国家は都市というより村?町?というくらいのレベル。

 ですが、アテネ、プラタイアイ連合はペルシアに勝っちゃうんです。これが、
マラトンの戦い

 マラトン・・・。マラソン・・・。う〜ん。似てますね。だって、マラソンの語源がこのマラトンの戦いですからね。マラトンでの勝利を伝える為に伝令を命じられた人がマラトンからアテネまでの長距離を1人で走りきりアテネの城門のところで力尽きて死んでしまったんです。兎に角、早く勝利をアテネの人たちの伝えたかったんでしょうね。相手がペルシアですからね。アテネの人たちも心配していたのを十分わかっていて必死に走ったんでしょう。スゴイです。

 ちなみにBC486年にペルシアのダレイオス1世は死にます。そして、その後を継いだのがクセルクセス1世でした。

 
第3回ペルシア戦争(BC480〜479年)

 これは、有名な戦いですよ。映画などで見た人も多いんじゃないかな。スパルタの兵士300人でペルシアの大軍に突っ込んで全滅しちゃうっていう”アレ”です。

 この時のペルシアの国王はダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世。

 10万のペルシアの大軍とスパルタ軍300名がテルモピレーという山と海で囲まれた場所で激突します。

 たった300人でスパルタはペルシアの大軍に突っ込んでいくんです。

 まぁ、本当はペロポネソス半島から4000人くらいの兵士を連れてきていたんですけど、彼らはペルシア軍を見た途端に逃げちゃうんですね。残ったのがレオニダス王を含めたスパルタの兵士300名だけだったというわけ。

 後でお話しますが、スパルタの人たちはサイヤ人みたいな超戦闘部族。めちゃくちゃ、強い!ですが、さすがに、この兵士の差を埋めることはできず、スパルタは敗北します。

 これが、ペルシア戦争におけるペルシア最初の勝利となります。

 
サラミス湾の海戦

 スパルタの敗戦でピンチとなったギリシアの諸都市。しかし、そこに英雄が現れます。テミストクレスというアテネの将軍。彼は、ラウレイオン鉱山の収益を軍艦製造にまわして三段櫂船という特別な船を造っていたんです。そして、ペルシア海軍をサラミスにおびき寄せて大海戦に臨みます。

 アテネは200隻ほどの船を出し、ギリシア連合軍も400隻ほど。対するペルシアの海軍は700隻。

 数の上では、ややギリシア側の劣勢ですが、地の利を生かしギリシア軍はペルシアに打ち勝ちます。

 これが、サラミス湾の海戦です。

 ちなみに、この海戦は、アテネの民主政の発展にも関わってきますよ。

 アテネでは、軍役義務を果たした人に参政権が与えられましたね。貴族や多くの平民も軍役を果たし参政権を獲得していたけれども、武器を買うお金もない人たちは軍役義務を果たすことができず参政権を持つことができませんでした。

 しかし、サラミス湾の海戦によって武器も買えない人たちにもチャンスが巡ってきたんです。

 船を漕ぐ役目です。当時の船は帆をはって風の力で進むわけですが、戦争となれば風の吹くままに進むわけにはいきませんね。敵船の逆に進んでいったら戦いになりませんから。そこで、どうしたかというと漕ぐんです。もう、人力で漕ぐんです。

 これにより武器も買えない平民の人々も軍役を果たすことになり参政権を獲得することになります。

 
ギリシアの勝利

 このサラミス湾の海戦で大勝利を得たギリシアは、その後の陸上の
プラタイアイの戦いでも勝利。さらに海上でもミカレ岬の戦いにも勝利しペルシアはエーゲ海から後退していくことになります。

 大国ペルシア帝国からの攻撃をギリシア連合軍は撃退したんです。これは、よくペルシアの専制王政に対するギリシアの民主政の勝利だといわれますね。まぁ、モチベーションが違ったんでしょう。ペルシア軍は征服した地域の民や奴隷も軍の中に多くいたのに対して、ギリシアは志願兵なども多かったといいますからね。

 次回は、戦闘民族?スパルタについて学んでみましょう。

 
<アテネでの民主政の発展


 >スパルタについて