歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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小牧・長久手の戦い


 
小牧・長久手(ながくて)の戦いとは1584年。豊臣秀吉VS織田信雄・徳川家康の戦いです。

 時は、織田信長亡き後、天下の覇権が秀吉に傾きかけていたころ。その秀吉を快く思わぬ人物は多くいました。その中でも織田信雄(のぶかつ)は信長の次男。長男の信忠はすでに他界しているため、本来であれば自分が信長の跡を継ぐのが当然・・・。しかし、今の自分では、秀吉の対抗するには力不足。そう考えた信雄は徳川家康に力を貸してもらえるよう頼むのでした。

 家康にしても秀吉にだまってこれ以上力を付けさせたくはないといったところ。そこで信雄の誘いにのることにするのです。

 秀吉も家康と信雄が親密になっていく状況をいち早く知り、信雄に仕える3人の重臣になんとか信雄を押しとどめるよう頼むのですが信雄は3人の重臣を秀吉に内通しているとして殺害します。これが秀吉に対する事実上の戦線布告となるのでした。1584年3月のことです。

 信雄は伊勢の秀吉方の拠点を叩くと同時に家康と示し合わせて挙兵。家康は浜松を立って信雄の居城である清州城に入り軍議を開きます。

 ところが、同日の夜、秀吉方となっていた池田恒興(つねおき)が信雄方の犬山城を攻撃し攻略します。おっと、池田恒興って誰?!って話ですね。

 そもそも、小牧・長久手の戦いは美濃大垣城の城主である池田恒興と金山城の城主である森長可(もりながよし)をどちらの陣営に引き込むことができるかの人取り合戦から始まります。池田恒興は信長の乳兄弟。森長可は信長にかわいがられた森蘭丸のお父さんです。さらに森長可は池田恒興の娘婿という関係です。この二人は結果的に秀吉方につくことになります。

 そして、池田恒興は犬山城を攻略して秀吉への手土産としたわけです。

 
小牧の戦い

 森長可も小牧山城を奪おうと動き出します。しかし、すでにそれを感知していた家康は約2万の兵を率いて小牧山に陣地を構え迎え撃つ準備万全でした。

 森長可はこれを見て小牧山の北6キロメートルの羽黒に陣を敷きますが、家康は配下の酒井忠次、榊原康政、奥平信昌らに命じて羽黒を急襲させます。結局、森長可は敗れ犬山城に敗走します。

 家康はそのまま小牧山城を修理補強して基地とします。一方の秀吉は犬山城に入り、そこから南進して小牧山に5.5キロほどの楽田城に陣を敷きました。そして、にらみ合いが続くことになります。

 さて、このまま膠着状態を続けても仕方がない・・・。そこで秀吉側の池田恒興が秀吉に作戦を献策します。

 「家康がこのまま小牧山に張り付いているのであれば、徳川の本拠地である三河に別の軍を派遣して攻め立ててやりましょう。」

 家康の本拠地の岡崎城を奇襲すれば、それを知った家康軍は混乱するであろう。その隙をついて秀吉本隊がいっきに撃滅すればいいという作戦です。これを「三河の中入れ」といいます。

 しかし、秀吉はあまりこの作戦には乗り気ではなかったといわれています。しかし、秀吉の甥っ子である秀次が総大将として出陣したいと望み、池田恒興もやる気満々・・・。しぶしぶ、秀吉はOKサインを出しますが、深入りはせずにすぐに引き揚げるように伝えます。

 こうして家康の本拠地に向かったのが池田恒興、森長可が先鋒で約7000の兵。その後を堀田秀政が約3000の兵。しんがりを総大将の三好秀次の兵7000と続きます。

 
長久手の戦い

 さて、ひっそりと動き出したはずの別動隊。しかし、翌日にはこれが家康の知るところとなります。家康はすぐさま兵14000を率いて小牧山から小幡城移り、そこで隊を二手に分けて別動隊の追尾を開始します。

 三河との国境に近い長久手まで進んでいた別動隊。家康はしんがりをつとめる三好秀次の部隊に背後から奇襲をかけます。不意を突かれる形となった三好軍。すぐに壊滅状態となり、秀次は命からがら逃げ延びることになります。

 三好軍の前を走っていた堀秀政隊。後方で秀次軍が奇襲を受けたという知らせを受けるとすぐさま引き返し家康軍を撃退します。そこへ池田、森隊も引き返してきます。

 家康は長久手一帯を見渡せる色金山に本陣をおき、ついに総攻撃をしかけるのでした。

 両軍入り乱れての激戦。しかし、森長可が銃弾を受け即死。池田恒興は、自分が進言した「三河の中入れ」だっただけに必死に戦いますが、ついに池田恒興も首を討たれ、別動隊は結果、楽田へ逃げ去ることになるのでした。

 完全に家康軍の勝利です。

 作戦失敗の知らせを受けた秀吉はすぐさま数万の兵を連れ長久手に向かいます。秀吉の大軍が動き出すのを見た家康側の本多忠勝は「さすがにあの数で攻められたら家康公もやばい。」と思い秀吉隊に鉄砲を放ちますが、先を急ぐ秀吉は無視。そのまま、長久手に向かいます。

 しかし、その頃すでに家康は長久手から小幡城に戻っておりました。

 肩すかしを食らった秀吉。小幡城についたころには夜になってしまっていたので翌日に総攻撃で家康を追いつめるつもりでしたが、今度はこっそり小幡城から小牧山の本陣へと移ってしまっていた家康。またまた、攻撃のチャンスを逃した秀吉はしぶしぶ楽田の本陣に引き返します。

 そして、再びにらみ合いの状態です。しかし、ここで秀吉は秘策にでました。信雄を懐柔、講和を結ぶことに成功するのです。

 さて、「織田信長の子である信雄が天下人となるべきだ!」という大義名分から始まった小牧・長久手の争いですが、その信雄が講和を結んでしまったことで家康が戦を続ける道理はなくなってしまったわけです。

 戦術的には家康の勝利であったわけですが、戦略では秀吉の勝利といったところでしょう。

 その後、家康は、秀吉に臣従の礼をとることを拒みますが、秀吉が実の母と妹を家康に人質として送ったため、家康もついには折れて秀吉に臣従を誓うことになります。