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ジョン・F・ケネディ


 
ジョン・F・ケネディは、1961〜63年に第35代アメリカ合衆国大統領となった人物です。1960年の大統領選では「ニューフロンティア」を掲げ、ニクソン候補を破って当選しています。

 フロンティアというのは、未開拓地の分野といった意味があります。当時すでに地理的なフロンティアは消滅していましたが、戦争や偏見、差別、貧困といった問題が残っていました。これらの解決を呼びかけ賛同を得たんですね。

 ジョン・F・ケネディの功績としては、キューバ危機の回避、部分的核実験の禁止事項締結があげられます。



 さて、ケネディ大統領といえば、ちょっと男前だし、43歳という若さで大統領となっているし、あのマリリン・モンローとも噂があったりしているのでそりゃもう羨ましいといたイメージを持っている人も多いことでしょう。

 しかし、彼は長い間、重い病気に苦しんだことを知る方は少ないのかもしれません。

 幼少期からケネディは、継続的な風邪の症状や慢性的な下痢をともなう症状に悩まされていました。風邪や下痢なんて別にたいしたことないじゃん。って思うかもしれませんが慢性的ですからね。血尿まで出たこともあるそうです。

 医師の診断でも消化器系の潰瘍やら過剰性腸症候群やらまちまちで治療に大量のステロイドが投与されました。ステロイドは、当時知られていませんでしたが副作用が強いんです。ですから、成人になると今度は原因不明の背骨の痛みや副腎機能不全(アジソン病)に苦しむことになります。

 入学したプリンストン大学も半年ほどで退学してしまいます。その後、ハーバード大学に入り直しますが、ここでも体調不良が続き、成績は落第ギリギリだったといわれています。

 その後、第二次世界大戦にてケネディは海軍に入隊。魚雷艇の指揮官となります。ですが、1943年8月にソロモン沖にて日本の駆逐艦と彼の乗る魚雷艇が衝突し、ケネディの乗った魚雷艇が沈没してしまうんです。その時、ケネディは負傷した部下を命綱で結んで6キロほど泳いで近くの島にたどり着きました。この事がアメリカの「ニューヨーカー」誌に掲載されて彼の名は全米に知られることとなります。

 その後、政界入りしたケネディは、若さと自身に満ち溢れた語り口調で指示を集め第35代アメリカ大統領に就任。しかし、就任後すぐにピンチがやってきます。

 ビックス湾事件といってキューバのカストロ新政権を打倒する為にアメリカに亡命したキューバ人をCIAの指導のもと軍事訓練しキューバに送り込んでキューバの内紛に見せかけて政権を壊滅させちゃおう!という作戦が失敗しちゃうんです。まぁ、ケネディが考えた案ではないんですけどね。

 1961年の4月に亡命キューバ人部隊がビックス湾に到着。攻撃を開始しますがカストロの軍隊に敗北してしまうんです。これでケネディはCIAに激怒!CIAが「絶対、成功します!」ってケネディに説得したからOKしたんですからね。しかし、すぐさま失敗って・・・。全責任を負わされたケネディは怒りますよね。これでCIAとケネディの関係には大きな溝ができるんです。そして、頭にきたケネディはCIAを解散させようとまでします。ですから、ケネディ暗殺の黒幕にCIAがいる・・・。なんて噂が出てくるんですねぇ。

 その後、キューバ危機という最大の試練にケネディ大統領は立たされることになります。

 1962年10月、キューバにソ連のミサイル基地が建設され始めていることが発見されるんですね。キューバにミサイル基地が出来てしまったら核爆弾を積んだミサイルでニューヨークやワシントンなどが狙われてしまいます。

 これに大きな危機感を抱いたケネディ大統領は10月22日、通常のテレビ番組を中断しホワイトハウスからテレビ演説により国民にキューバにソ連のミサイル基地があることを公表。実力行使をしてでもキューバへミサイルを運ばせないという意思表示をしました。ソ連やキューバもこれに反応。ソ連と東ドイツ軍は西ベルリンをいつでも攻撃できる準備を整え、キューバの市民25万人が直ちに米軍からの攻撃に反撃できる体制を整えます。

 アメリカも核爆弾を搭載した爆撃機が空中給油を受けながらソ連本土に標準を合わせる状態という正に一触即発状態です。

 しかし、10月28日。ソ連のモスクワ放送は突如、キューバから武器を撤去するという発表をします。

 キューバ危機は表向きはアメリカの強硬方針にソ連が折れたというようにも見えますが、水面下では、戦争回避のためにケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相との間で書簡を交える激しい交渉が繰り広げられていたという証言があります。アメリカはトルコに配備していたミサイルの撤去を数か月後に行っておりますし、アメリカとソ連の首脳を結ぶホットラインも開設されました。

 1963年8月、キューバ危機の教訓もあり、核保有国である米英ソは部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印をします。「部分的」というのは対象が大気圏、宇宙、水中にとどまり、地下は除外されていたためです。それでも核軍縮に繋がる大きな一歩でした。 

 しかし、1963年11月。ジョン・F・ケネディはテキサス州ダラスにてパレードの最中に銃弾を受けて暗殺されてしまうのです。その後、1964年にはソ連のフルシチョフ首相が突然の解任。核軍縮の動きは、その後、逆方向に進むことになり大陸間弾道ミサイルなどの核開発競争が激化していくことになります。

 キューバ危機を乗り越え、核軍縮を推し進めたジョン・F・ケネディ。彼が銃弾に倒れなければ世界は変わっていたかもしれないといわれているのはその為です。

ケネディ暗殺