歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記中国の歴史殷王朝

殷王朝

 
 (いん)王朝は紀元前17世紀頃から紀元前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配した王朝で実在が確認しうる中国最古の王朝といわれています。この殷は『史記』に記述があるものの19世紀まで実在しない伝説の王朝だと思われていました(ちなみに、殷以前にも夏(か)王朝などが存在したという伝説があるものの、こちらは現在に至るまで実証されていません)。

 1899年に殷王朝の首都の遺跡(殷墟)が河南省安陽(あんよう)市小屯(しょうとん)で発見され、さらに実在を確認する為、当時の学者さんたちにより亀の甲羅や鹿の骨に刻まれた
甲骨文字(こうこつもじ)が研究され、それらを『史記』の記述と照らし合わせることにより、殷王朝の実在が間違いないことが確認されました。

 この殷王朝では、占いにもとづく
神権政治が行われ、甲骨文字が使われていました。この甲骨文字は現在の漢字の基礎にもなっていますね。また、氏族共同体であったといわれています。この氏族共同体とは、簡単にいってしまえば親戚同士の共同体。この数千の親戚の集まりが数百の王族や豪族に支配されていた訳です。

 殷には
(しょう)という比較的大きな都市国家がありましたが、このような大きな都市国家が近隣の都市を緩く支配していた時代です。まだまだ、秦の始皇帝が中華を統一したような大きな王朝という訳ではありません。大小いくつもの都市国家が連合してできた王朝の時代でした。

 殷やその次の王朝、周の時代では、この連合した都市国家のかたちが続き、春秋戦国時代を経て秦や漢といった大きな王朝となっていくのですが、それはまた後でのお話・・・。



 殷で有名なのが
青銅器(せいどうき)ですね。これは、現在の職人さんたちでも、この時代の青銅器より優れたものは作れないというほど精巧なものだったといいます。(ちなみに、テレビ東京の『なんでも鑑定団』で殷の時代の青銅器が鑑定されましたが、オープンプライス・・・何と2億円でした!)

 この殷王朝は、暴君として有名な
紂王(ちゅうおう)が後の周王朝の王・武王(ぶおう)に牧野(ぼくや)の戦いに敗れ滅びることになります。この牧野の戦いに紂王が敗れた年はいろいろな説がありますが、紀元前1046年というのが有力な説となっています。

黄河・長江文明

周王朝